白山比咩神社のコラム「神道講話390号」を掲載しています。

神道講話

神道講話390号「陋規(ろうき)ということ」

はじめに

最近の出来事として地震や洪水など天変地異が起こり、多くの人々が命を失い、また家屋や田畑などの財産が奪われ、紛争地域では、ISによる自爆テロによりこれまた多くの尊い命が失われ、また、大統領選挙を始め国の内外では、首長選挙で他人の誹謗中傷合戦を繰り返し、介護施設では、重度身傷者の殺りくなど、気が重くなるような事ばかりが今の世を取り巻いています。
そんな中、この度「到知」3月号に「清規と陋規」と題してウシオ電機会長牛尾治朗氏の記事を拝見しましたので、ご紹介しながら共々に勉強したいと思います。
清規とは、表の道徳とも申すもので「教育勅語」のような訓戒、例えば「人のものを盗んではいけない」とか「喧嘩をしてはいけない」とか「親孝行をしましょう」など教育勅語の十二徳があげられます。

本年は「教育勅語」が渙発されてより、126年を迎えます。

教育勅語原文

陋規とは

「陋」を辞書で調べると「せまい」「いやしい」という意味だそうですが、陋規とは、清規に対して裏の道徳というべきものであります。
社会というものは、清規が大切であることは言うまでもありませんが、そうした建前や綺麗事ばかりでは、成り立つものではありません。
陋規の裏打ちがあることによって秩序が保たれていることは、否定できない現実なのであります。

さまざな形での陋規

陋規は、例えば、喧嘩もただ無軌道にやるのではなく、素手で行う・一対一で行う・自分より強い者と行うなど一定のルールに則ってやる。同様に、泥棒にも掟があるといった暗黙の約束事も皆、陋規に含まれます。
例えば、芝居などで有名な鼠小僧次郎吉は、貧しい家を襲わないこと・放火をしないこと・女性に乱暴をせぬこと、この3つの掟に則って盗みを働き、義賊として庶民の喝采を浴びました。
また任侠映画が歓喜を魅了するのも、陋規に満ちた世界を描いているからと言えるでしょう。
芸能の世界ばかりでなく、武士道や職人芸、スポーツなど一つの道を貫く世界や、地域のお祭りなどにも陋規は満ち満ちています。
仮にも、お年寄りを騙してお金をせしめる振り込み詐欺の様なこと、また介護施設で多くの人々を殺傷するなどは、昔は起こり得ないことでした。
社会全体が越えてはならない一線を越えてしまい、恥も外聞も無いことが横行するようになったのには、陋規を育んできた地域の繋がりが薄れ、尊い伝統が失われつつあることと深く関係しているのではないでしょうか。

つるぎの里に根付く「ほうらい祭り」

経済界での陋規

当社の総代を務めて頂いている製造業の会社でも、先のリーマンショックで業績がふるわなかった時に、経費の無駄を徹底的に排除し、苦しい中にも多額の経費をさき、事務職や営業の従業員には、製造過程の勉強をさせ、製造担当者の職員には、事務方や営業の仕事を覚えさせ、世界経済の危機が過ぎた時には、互いに全ての業務を理解し、こなせる人材育成をされ、給料や賞与は、全て現金支給し、労働の有難さ、金銭の有難さを家族全員が共有し、社員と家族が一体となって、夫婦・親子の絆を強固なものとし、雇用はできるだけ守って行くという企業がありました。
このような独特の伝統が、長らく日本企業の強さの源泉にもなっていたのだと思います。

むすび

この頃は、陋規という言葉を知らない人が大半になりました。それに伴って、常軌を逸した事件が頻発するようになりましたが、安岡正篤先生は「清規という上層建築は修繕可能だが、陋規という土台が崩れてしまっては、もうどうにもならない」と警鐘を鳴らしています。
綺麗事ばかりが罷り通り、それを補完する陋規というものが忘れ去られてしまうことは、危険なことなのです。陋規という言葉とともに、日本を長きにわたって支えてきたよき伝統にいま一度目を向けることが重要なのではないでしょうか。 混沌とする現代にあって、もう一度清規を見直し、陋規を守り、人々が仲良く、思いやりの心を以て幸せな世の中を築かれむことを望むものであります。

「教育勅語の十二徳」