白山比咩神社のコラム「神道講話420号」を掲載しています。

神道講話

神道講話420号「まね・なれ・おのれ」

愛情をかけて大切に育てた野菜の数々


◆ はじめに

畑や家庭菜園などでは、春・夏・秋・冬で作る物が決まっています。その作物は、手を掛ければ掛ける程、良いものが出来るし、手を掛けなければ伸び放題となり、曲がったキュウリやナスが実ります。花壇も同じで、朝夕に水をやり、雑草を取り除いて、害虫駆除をすれば、美しい花が咲くのであります。
春・夏・秋・冬とは季節であり、旬であります。その旬は、植物が一番知っていて、いつ花を咲かせれば虫たちが蜜を吸いにきて受粉するなど自然の摂理として生きているのです。
「春は里から、秋は山から」と言いますが、春物野菜でも特に山菜は、雪どけを待っているかのように芽吹き「ふきのとう」「こごみ」「わらび」「ぜんまい」「たらの芽」「コシアブラ」「山椒」など書き出したら切がない程です。
夏の野菜は「キュウリ」「ナス」「トマト」「カボチャ」「ゴーヤ」「スイカ」「ウリ」そして、夏の終りから秋にかけては「ミョウガ」が出廻り、秋には豊かな稲作のお米、木の実の収穫です。

沢山収穫された大根(写真提供 (株)MEGURIY)

◆ 里山

白山麓(旧鶴来地区)では、猿と競争で、小学校の菜園では、収穫間近の「大根」や「カボチャ」が、我がもの顔の猿に取られ、それを校舎の中から生徒や先生が見る光景は、あたかも「サファリーパーク」さながらで、これに輪を掛けて、地区管内の放送で「熊」や「猪」の出没に注意を呼びかけています。
「里山」と言われるように、人里近くの獣は山に棲むものですので、大人しく山で生活してほしいものです。

白山市民が丹精こめて育てた大輪のアサガオ(千代女あさがおまつり)

◆ 育てるということ

植物は育てたようにしか育ちませんが、人間もしかりです。
和倉温泉「加賀屋」の古老は「まね・なれ・おのれ」と申しておりましたが、親の仕草を見て子供は親の通りにまねる訳ですから、まず親がもう一度勉強をしなおさなければならないと思います。
明星大学の高橋史朗先生は、講演で“躾(しつけ)は親から”と「親学」を推奨しています。テレビのゲストやタレントの食リポなどを見ていても、まずお箸の持ち方の酷さが目につきますし、食い散らかすのもいかがと思います。
兄弟姉妹のいる子は、競争心、反抗心があり、協調性や礼儀も備わっています。
スポーツでも同じで、団体競技の選手と個人競技の選手も同じように感じますし、競技と演技でも違います。
両親共働きの家庭で一人っ子で育った子供は、個性にたけていて、一人遊びが得意、反面「報告・連絡・相談」は相手がいないので不得意であります。
昔から「ジジババ育ちの三文安」といわれ、祖父母に育てられた子供は、甘やかして育てがちですが、反面礼儀や言葉使いなどを知る機会もあり、人への甘え方も会得しているように思います。
また、子供の親が行動の先々に口出し、朝の起床から排便、洗顔、食事、ハンカチ、ティッシュ、宿題、忘れ物等々、起きてから就寝まで、言い過ぎると子供は何も考えない子になります。
人にはそれぞれ別々の「ものさし」(基準)がありますが、その地域の風習とか、その家の習慣とか、仕事の決まり事や常識など、守らねばならない事を教えなければルールや節度など、人と人とのつながり、コミュニケーションがとれなくなってしまいます。
とにかく、「まね」て覚え、「なれ」て協調のあと、自己啓発しましょう。

◆ むすび

自然災害で被災した人々に「頑張って!」と声をかけますが、被災した人々からは「何をどのようにどれだけ頑張れば良いのか?」と逆に質問されます。頑張るということは「忍耐!!」つまり耐え忍ぶ事であります。現実を正しく受けとめ、辛抱する、負けない、諦めないことであります。
被災者もそうですが、医療従事者も同様で私達と共々に耐えがたきを耐え、この国難に立ち向かっているのです。
大自然の中で生かされ、育てられるその有難味は、正に「神の掟」の中に在るのであります。
全てのものに神が宿っていると申しますが、それには善神もあれば悪神もあり、幸せをもたらす神もあれば禍(柱)つ神もあります。
古事記、日本書紀には、神々の「契(うけひ)」が書かれています。自然の現象は「神の掟」ととらえ、雨・風時に従い、生きることを考え、実行することです。
目に見えないウイルスに立ち向かう為にも目に見えない「カミ」に「いのり」を捧げ、全ての自然現象に目を向け、六根清浄「清き心」で日々を過ごしましょう。
現代人の私達のエゴイズムが大自然を破壊し、地球全体が脆弱の一途を辿っているように思います。
今一度、豊かな稔りの秋に感謝し、清き流れの浄水に「ありがとう」。
そして、神のみこともちとして強く生きることを望みます。