富士山・立山と並ぶ日本三名山の一つ「白山」。雪を頂き、光を浴びて輝く姿に、古来より人々は白山を「白き神々の座」と信じ、崇めてきました。

白山信仰と白山比咩神社

白山信仰

白山遠景 富士山・立山と並ぶ日本三名山の一つ「白山」。雪を頂き、光を浴びて輝く姿に、古来より人々は白山を「白き神々の座」と信じ、崇めてきました。 また、農耕に不可欠な水を供給する山の神としてだけではなく、日本海を航行する船からも、航海の指標となる海の神として崇められていました。
北陸は、『日本書紀』の時代には「越の国」と呼ばれており、白山はそこにそびえる白き山という意味を込めて、古くは「越のしらやま」と呼ばれていました。

古来より白は神聖な色であったことから、平安時代には「越のしらやま」は都人にとって憧憬の山となり、当代一流の歌人たちの歌にも白山の名を見ることができます。

思ひやる 越の白山 知らねども ひと夜も夢に 越えぬ夜ぞなき 紀貫之『古今和歌集』

消えはつる 時しなければ 越路なる 白山の名は 雪にぞありける 凡河内躬恒『古今和歌集』


日本では、もともと「山」に対して二つの信仰が存在してきました。一つは遠くから眺めて神秘を感じ、山の神に感謝を捧げる「遥拝(ようはい)」で、北陸道筋には、白山を眺めるための「遥拝所(ようはいじょ)」が設けられていました。
もう一つは、山中に分け入って厳しい修行を積み、宗教的境地を目指す「修験」で、白山には全国から修験者(山伏)が集まりました。
どちらの信仰においても、白山ほど霊峰という冠が似合う山はなく、神々しいまでの美しさは多くの人を魅了し続けています。

白山信仰の始まり

養老元年(717)、越前(福井県)の僧「泰澄(たいちょう)」が初めて白山に登拝し、翌年山頂に奥宮を祀りました。以来、神々しい神の山は人々の憧れとなり、白山信仰は急速に全国に広まっていきました。
白山登拝が盛んになると、加賀(石川県)、越前(福井県)、美濃(岐阜県)には、その拠点となる馬場(ばんば)が設けられ、多くの人々で賑いました。
白山比咩神社は、加賀馬場の中心として栄え、比叡山延暦寺の末寺として多くの衆徒(しゅうと)を擁し、北陸道全域に勢力をおよぼしました。

武家の崇敬も厚く

前田利家奉加帳 鎌倉時代には、源頼朝の寄進を受けるなど、武家からも厚く崇敬されました。しかし、戦国の混乱や一向一揆の台頭によって一時衰退します。
江戸時代になると、加賀藩主前田家の庇護のもと復興し、前田家の祈願所にもなりました。
そして明和7年(1770)、時の10代藩主前田重教(しげみち)によって現在の本殿が寄進されました。

前田利家奉加帳
天正14年(1586)に加賀藩祖前田利家が白山本宮に金品の奉加を行った。これ以後、歴代の藩主によって奉加が行われている。

今に生きる白山信仰

重要文化財「銅造十一面観音立像」 明治時代を迎えると、神社と寺院を区別させる神仏分離令が発令され、仏像や仏具が白山の頂より下ろされることとなりました。それらの仏像は「白山下山仏」として現在も白山の山麓の白山本地堂や尾添白山社などに安置されています。
明治10年(1877)には、白山比咩神社を本宮、山頂の神祠が奥宮と定められ、御鎮座二千百年を越える信仰の地として親しまれています。

重要文化財「銅造十一面観音立像」(白山市林西寺所蔵)
神仏分離で白山から下ろされた下山仏の1軀。平安時代につくられた傑作。