神道講話363号「教え育(はぐ)くむということ」
はじめに
「教育」とは、
①教えて知識を啓発させること。教え育てること。
②まだ成熟しない者の身体上及び精神上の諸性能を発展させるために、ある一定の期間、継続して行う教授
的行動。例えば、学校教育・専門教育・家庭教育・社会教育等々
と辞書にあります。
「教える側」と「教わる側」
「教える」とは一般的に「知識・技能などを身につけるように導く。覚えさせる。教授する。知っていることを知らせる。諭す。戒める」ということです。
では、教えるのは誰なのでしょうか。そして、教わるのは誰なのでしょうか。
事の是非や物の道理などをよく教えて充分に納得させる。
学問・技芸を教え授けること(人)。教育機関などで専門の学術を講義し、研究を指導する職(の人)。
小・中学校・高校は教諭とか、教員と言い、大学では教授と言います。教員とは、学校・教習所などの職員として教育の任にあたる人を指します。
では先生とは、
①先に生まれた人
②父母及び長兄
③学問・芸道にすぐれている人
④師として仕える人。教師
⑤医師・代議士・弁護士などを呼ぶ称
⑥他人を親しみまたはからかうような気持ちで呼ぶ言葉(やっこさん・大将)
等々があります。
教わる方は、生徒とか学生といいますが、教わる方法は学習とか、勉強とか言います。
勉強というのは“つとめてしいる”ことであり、商品を値引きしてもらう時に強く交渉することを指しますから、教育では“つとめてしいる”こと(勉強)は苦しいだけであります。やはり“まなび・ならう”という学習の方が良いのでしょう。
戦前と戦後教育の相違
さて、戦前と戦後の教育は童謡に現れていると言われております。
鞭をふりふりチイパッパは、体罰と言われても仕方ありませんが、私は親から正しいことを諭される時に「口で言って聞かせてもわからなければ次は叩くしかない」と教育されました。
会津藩(福島県)の「什(じゅう)の掟」には“ならぬことはならぬものです”と6歳の子供たちに教えています。
そして戦後の教育では、誰が生徒か先生かみんなで元気に遊んでる…とは、教える立場・教わる側が同等もしくは逆転しているのが現状といっても過言ではないと思われます。
日本人は戦後、アメリカ依存の平和に安住しながら物質的な豊かさと引換に先人から受け継いできた日本人の価値や国民としての自負を失ってしまった様に思います。
そして現代人の絶対的価値は、物欲・金銭欲といった我欲の達成でしかなくなってしまいました。
私達は、先人から伝えられた礼儀とか躾(しつけ)、知識や教養・道徳を子や孫たちに正しく教え、導く義務があると思います。
おわりに
先の大震災で、被災者同士が支え合い、秩序正しく、行動する姿は世界を瞠目させましたが、これは未だ先人から受け継がれた道徳が、心の中で生きていたことに外なりません。
私たちは自らを振り返り家族・地球の絆、そして日本という国を、国家というものを改めて見つめ直し、教育とは何なのか、何の為に行うのかということをもう一度考え直し、教育の荒廃を是正して、正しい教育の実践と共に、孫・ひ孫に恥じないよう、心の温まる・血のかよった・美しい日本を伝え、希望の光を信じ、きれいで、心豊かな日本を築いていきたいものです。