神道講話380号「生きる喜び」
はじめに
古事記の天地初めの段のあとに、天津神が伊邪那岐命と伊邪那美命に「是のただよえる国を修理固成(おさめつくりかためな)せ」と詔をされました。この言葉を本居宣長は「稚く浮かべる脂のように漂うこの国をツクリカタメナセ」と解しております。
つまり、事物は漂えるがままでは事物になり得ないというところに歴史の営みがあります。そして、私達の祖先は敬神生活の綱領の中にあるように世の為人の為に奉仕し、国の隆昌と世界の共存共栄とを祈りながら歴史を積み重ねてきたのであります。
私達が今生きているということは、過去の歴史をもとに未来の為に一生懸命に生きるという事であります。
家族を思い、国を思い、地球を考え、希望に満ちた生活を送りたいものです。
いのち
では、「生きる」ということ、又、「いのち」とは何なのでしょうか。日野原重明先生は「いのちは時間の中にある。」と言っております。そして子どもたちに「いのち(時間)は空気と同じで目には見えないけれど、それを実感し、自分のためだけに使うのではなく、家族や友達など他の人の為に何かができる大人になるということ、つまり他人の命を大切にしましょう。
そうすることで、いじめやけんかはなくなります。」と。
無望
現代社会において、今の日本人は、希望も目的も目標もなにもない「無望」の世代といわれ、生きる欲も無くしてしまって自死や孤独死といった人々が年間六万人を超えるという記事を拝見しました。
そして、「この国には何でもある。だが、希望だけがない」として日本人大学生が過激派組織「イスラム国」に参加する目的で渡航しようとした事件もおきました。
それは大人が自信を失い、教師も親も子どもたちに対し、未来の展望を語れない、つまり生き方のモデルを提示できなくなっているということであります。
子どもたちに将来の環境や資源・人口・食料などの問題、そして何よりも平和な地球社会を作る、生きる喜びのすべて、家族愛と友情と尊敬と誇りを持つということについてどうしたら良いのかを教えなければならないと思います。
むすび
去る11月23日、献幣使として三宮町会長上田武夫氏、同随員三宮町青年団々長半田圭吾氏をお迎えし、氏子崇敬者をはじめ関係者約八十名余の参列のもと、新嘗祭が厳粛に斎行されました。
当社の年中祭典の中でも特に重要な「三大祭」の一つで、新穀の収穫に感謝の誠を捧げ斎行されております。
ご神前には、10月の抜穂祭に於いて奉耕田にて収穫されたイセヒカリを、和稲(白米)荒稲(玄米)に調製し、粟・黍・麦・小豆とともに五穀としてお供えしました。
宮司の祝詞奏上、献幣使の祭文奏上に続いて、舞女による「浦安の舞」が奉奏され、大神様のご加護と御恵みにより今年も無事に収穫できたことへの感謝の誠を捧げました。
報われない努力はあっても無駄な努力はひとつもない。
という言葉もあります。
さあ、年の始めに希望を持って神の恵みと祖先の恩とに感謝し、目標を決めて、元気に朗らかに生きたいものです。