神道講話384号「後始末」
はじめに
この度京都一燈園の燈影学園長相大二郎(あいだいじろう)氏の新聞記事を拝見しましたので、一部転載します。
『「後始末」や「お掃除」の原点は「トイレ掃除」である。大人は皆「後始末」をやかましく口にするが、学校でも家庭でもなぜトイレの掃除を子どもにさせないのか、不思議に思う。
子どもたちは自分たちの汚したトイレを自分たちで掃除することに対して何の不思議も抱かない。むしろ当然のことと受け止める。
子どもの頃に自分の汚したところを他の人に始末をさせて成長すれば、そういう大人になるのは当然ではないだろうか。これは教育であろうか』
と。そして、昭和8年の燈影学園は創立以来「校則」というものを定めていない。 したがって80年間「校則違反」はないのであります。「トイレ掃除」はすべて子どもたちと教員たちが一緒に行う。子どもたちもイヤな顔一つせず当然のこととして行っている。
「心磨き」実践
去る7月1日、宮元陸加賀市長・山下修平教育長ら市幹部5名は、「石川掃除に学ぶ会」や倫理法人会のメンバー10人と共に加賀市柴山潟湖畔公園の公衆トイレの便器を「素手」で丹念に磨き、排水口の黄ばみを金属のへらで削り取り、便所清掃で感謝の気持ちなどを育む「心磨き」の取り組みに理解を深めました。
きっかけは昨年11月、山代中学校の生徒が同校で行ったトイレ掃除と、今年5月に加賀市教育委員会が「心磨き」を提唱する会社役員(東京)を迎えた講演会を開催したのが、今回の行動に繋がりました。
宮元陸市長は「参加を希望する市職員を募り、清掃の輪を広げたい」と話され、市教育委員会も率先して各小・中学校にも実施を呼びかけたいと申しておりました。
食事の作法
昭和45、46年頃、大学生になって京都に部活動で合宿に行った時のことでありますが、万福寺というお寺で座禅の体験をしました。「鉄鉢(てっぱつ)」という器で、お椀が7個重ねて収納できるとても便利なものでしたが、その食事の時は一礼をしてから食事を摂るのです。一切話をしてはいけない事となっており、器はその都度手に取り箸を取って食し、終えたら箸を置き器をもとに戻し、次の器を取り、また箸を取って食することの繰り返しであります。
ご飯は係の人がお櫃を持って各人の前に座ると無言のまま、おかわりの人は合掌し一礼、少しおかわりの人は合掌の手をすりあわせ、おかわりの必要でない人は、合掌の手の右手をすり上げるという作法でありました。
当然食べ物を残すことは許されず、また最後に沢庵を一切れとっておいて、お茶を入れた器を洗い、次の器に注ぎ移してまたそれも沢庵で洗い、全てすすぎ終えたら、最後にそのお茶を飲み、沢庵を食して、食事は終了。自分で使った器と箸は自分で洗い、よく拭いて、布袋に入れ保管棚に入れ終了するといった作法でした。
自分に出された命の食事を大切にし、残すことなく最後の一滴まで飲み干し、与えられた命に感謝する。
そして、その命によって自分は生かされているということを学ぶのであります。
むすび
幼稚園の頃、先生たちは1日の終了の際に、遊んだオモチャや椅子・机など「おかたづけ」を指導しています。飲み物を飲んだ後のペットボトルの後始末、噛んだあとのガムの処理、大人に至ってはタバコの吸い殻の始末等々、私たちは折りにふれて「躾」というものを体で覚えてきました。
今、地球温暖化などで「地球破壊」「人類絶滅」という課題を抱えているに伴い「持続可能な開発のための教育」(ESD)等が叫ばれています。
これらの原因はすべて現代文明の中に生きる我々人間の行為「ポイ捨て」「使い捨て」「垂れ流し」「大型ゴミ」「排気ガス」「使用済み核燃料」などすべて「後始末」の結果と言われても致し方ないことであります。
本年は教育勅語渙発125年になりますが、その中でも教育勅語の十二徳「孝行(こうこう)、友愛(ゆうあい)、夫婦の和(ふうふのわ)、朋友の信(ほうゆうのしん)、謙遜(けんそん)、博愛(はくあい)、修業習学(しゅぎょうしゅうがく)、知能啓発(ちのうけいはつ)、徳器成就(とくきじょうじゅ)、公益世務(こうえきせいむ)、遵法(じゅんぽう)、義勇(ぎゆう)」は、人としての生きる道と心の教育ではなかったでしょうか。
この後続く子どもたち、孫たちに「後始末」を押しつけるのではなく、今智恵を出しより良き地球関係を、より良き人の道を歩みたいものです。