神道講話400号「日本人の美風」
はじめに
日本人には昔から礼節を大切にし、きずなを強く、時にはやさしさ、愛情を以て人々と接してきました。
例えば向こう3軒両隣などです。向こう3軒両隣とは、自分の家の向かい側の3軒と、左右の2軒の隣の家のことで、家が接していて親しく交際すべき近所の家のことをいいます。戦前は、隣組の単位ともなっていました。
今年のように、例年にない積雪の多い時などの除雪は、隣の境目ぎりぎりに除雪すると、近所つきあいがぎくしゃくし、むしろいがみ合いになってしまいます。
ほんの少しでもお隣りの範囲の除雪もしてあげることで、地域のコミュニケーションが保たれると思います。
「秋深き隣は何をする人ぞ」の句がありますが、現代では、隣が何をしていても自分には関係ないと考える人が多くなったと聞きます。
しかし、この句は秋が深くなってきましたよ。まもなく寒い冬が訪れる季節となりましたが、お隣さんはどうしていらっしゃるのかと気づかう句なのであります。
忖度(そんたく)と惻隠(そくいん)
近頃の報道は、テレビにしても新聞にしても、他人の失敗や言葉尻をつかまえて、誹謗中傷の言い放題で目にあまります。人は信頼の上に成り立っていると思います。正しい日本語の意味や使い方までが乱れているように思えてなりません。
最近よく「忖度」という言葉が使われていますが、「忖度」とは“忖”も“度”もはかるという意味であります。
推測や推察といった言葉と同じで、他人の気持ちを推し量ることであります。
詩経に「他人心あり、予めこれを忖度す」とあります。目下の者が、目上の人に対し、心くばりをすることであり、決して“おべんちゃら”や“よいしょ”ではありません。
では、目上の者が目下の人を心配することは何と言うのでしょうか。
それは「惻隠」といいます。“惻”は傷みの強いこと、“隠”は痛みの深いことを指します。人に同情して忍びがたい心情とか、憐れに思う・心から労いたわしく思うことなのであります。
孟子に「惻隠の心は仁の端なり、羞悪の心は義の端なり、辞譲の心は礼の端なり、是非の心は智の端なり」とあります。
他人ばかりを責めないで「神様にほめられる生き方」を考えてみてはいかがでしょうか。
五分五分(ごぶごぶ)
神社の御神輿を担ぐ時に前後左右の力が等しくなければうまく担ぐことは出来ません。いくら神職や総代さんが掛け声を掛けても、一方の力が強く、もう一方の力が弱かったら神輿はひっくり返ってしまいます。皆が等しくバランスのとれた五分五分の力で神輿渡御は進みます。
また、年末に奉製する注連縄もそうです。当社では氏子青年会とあしめる会(壮年会)が力を合わせて重さ300キロ、長さ6メートルの大注連縄を12月23日に編み上げますが、まずは薦編みから始まり、その薦をつなぎ合わせて3本の棒状の藁束をつくります。
そして、一方の端を支えとして3本の縄を左巻きに編み上げますが、その時の力の具合がやはり五分五分でなければ、綺麗な大注連縄にはなりません。フィフティー・フィフティーと言いますが、力加減はまさにその通りです。
50+50は100、60+40も100、70+30も100と、足し算は答えが同じになりますが、力加減はかけ算であります。
50×50は2500、60×40は2400、70×30は2100となりますから、力加減は五分五分のかけ算で最大の力が出るのであります。
人生も、人つきあいも夫婦も、仕事も全て、五分五分のかけ算で対応すれば、最大の力が発揮され、素晴らしい世界が生まれます。
むすび
歴史を忘れた国は亡ぶと申します。日本の成り立ちと紀元2678年第125代の今上陛下が守り継承されている皇統というものを、もう一度認識し、美しい日本を後世に伝える義務が私たちにはあると思います。
それには子供や孫たちに、正しい日本語(母国語)を教える必要があります。それに伴い正しい歴史観を教えることも肝心です。
今年から小学校3年・4年生に英語の教育をすると聞きましたが、英語や英会話は、自国の歴史や風習を相手に正しく伝える手段でしかないのであります。
また、現代の子供たちには「忍耐」を教えなければなりません。忍ぶこと、そして耐えること、我慢をすること。少子化が進むと兄弟姉妹がなく、一人っ子が多くなり、望むものは何でも手に入り、食べたい時に食べ、遊びたいだけ遊ぶ、そして、物事に耐える・我慢する事を知らずに自暴自棄におちいってしまいます。
そうした子供たちには「涙」も教えましょう。悲しい涙・苦しい涙・うれしい涙・くやしい涙…涙の数だけ幸せを感じることができるのであります。
“妻は夫を労りつつ、夫は妻に慕いつ”という浪速節もありますが、目下あるいは部下が、上司の心を忖度し、目上の上司は部下の仕事を惻隠の情を以て接することが、日本人の美風のように思います。